日本企業と中国市場

日本の製造業の海外進出は1960年代から主に東南アジアで始まった。その頃の東南アジア諸国は関税障壁が高く(100%というところもあった)売りたい国で作る必要があったのである。日本への持ち帰りを目的に進出しだしたのは、1985年のプラザ合意以降の円高局面からである。この時はまだ東南アジアが中心であった。中国は1980年頃から改革開放政策が実施されたが、最初はアパレルや靴等の労働集約産業の進出だけであった。付加価値の高い企業が進出する条件が整いだしたのは1995年前後からである。2000年前後からは怒涛の如く日本企業の中国進出が続いた。その頃の中国は社会インフラが急速に整備され、モノづくりインフラも整い、加えて無尽蔵にいる低賃金のワーカーの存在と、中国政府の手厚い外資優遇政策に支えられ、東南アジアに比べて圧倒的に優位なモノづくり環境が確立された。

現在では賃金の大幅な上昇(2000年に比べて2016年の最低賃金は45倍に)で人件費の優位性はなくなったが、中国人は男女ともに優秀でよく働くのと、部品産業が充実しサプライチェーンが組めるのが東南アジアと比べて優位な点である。だから付加価値の高い輸出産業はまだ中国が捨て難いのである。

一方で賃金が上がった分国民は豊かになった。私が中国で仕事をしていた2005年頃は中国で空気清浄機を売ろうと頑張ってみたが、全く売れなかった。しかし、現在ではPM2.5の影響もあって飛ぶように売れるようになった。また中国は全国的に黄砂があり、洗濯物を外に干すと衣類が黒ずんでくるが、シャワールームで乾燥させる「バス乾燥ユニット」を発売したら、これも儲け頭になった。このように輸出や日本持ち帰りをしていた商品が中国市場でよく売れるようになった。もともと「世界の工場」という位置づけであったが、今や「世界の市場」である。自動車が年間2800万台も売れているのである。

一時中国リスクを考えて「チャイナ・プラス・ワン」が叫ばれたが、その時でも中国市場から離れようと考えた企業はほとんどない。世界で並外れた成長力を保持し、毎年台湾1国よりも大きなGDPが生まれているのである。日本のマスコミは中国のバブルがはじけるとか経済が行き詰まるという記事をこの10年来書き続けているが、日本の企業はリスクを考えながらも冷静に市場を見ているのである。

日本企業の中国駐在

製造業の話であるが、日本の企業は欧米系に比べて駐在員が多い。アメリカ人と話したことがあるが、彼らの発想は優秀な社長や管理職を現地で捜して雇い、彼らにビジネスをやらせるということをまず考えるそうである。だから最初は駐在員が居るが、ビジネスが回転しだすとさっさと自国に引き上げることが多い。

一方で日系企業はいつまでも日本人駐在員が居る。これは世界に冠たる「モノづくり大国」日本なので、自国で培ってきたモノづくりのノウハウをそのまま現地に移植したいと考えているからである。駐在員が現地にいる限りはポストが必要になる。だから部長クラスはほとんど日本人ということが珍しくない。これを見ている中国人は自分たちの将来を悲観し、チャンスがあればより可能性の大きい欧米系企業や中国地場企業に転出するのである。加えて欧米系や中国地場企業は優秀な人に高い給料を払うが、日系は平等主義がいきわたっていて給料の格差は小さいのである。

現地で仕事をしているとこのようなことが分かってくる。そこで大切なことは優秀な現地人材からいかにしてやる気を引き出し、辞めささないようにするかということである。中国人は将来の自分の利益を最大化することを真剣に考えている。だから「この会社に居たら自分にとってプラスである」と思ったら会社を辞めない。そのためには「ヤル気の出るしくみ」を構築し、権限移譲も含めて将来は人材の現地化を進めることを明確にし、そのためのコミュニケーションが大切だということになる。その時には日本で築き上げてきたモノづくりの思想を「日本ではこうしていた」ではなく、「なぜ日本のやり方が大切なのか」を論理的に説明できる知識とコミュニケーション力が必要となる。納得すると彼らは放っておいても自ら動いてくれるようになる。

さて、現地駐在の日本人経営者で日本本社の方を向いて仕事をしている人が時々いるが、中国人の部下はよく見ていて、そのような経営者は信頼されない。日本人経営者は中国人の部下と中国市場の方を向いて仕事をすべきである。そのためには自分自身にしっかりとした「思い」「ポリシー」を持ち、現地会社として何がしたいのかを明確にしなければならない。それをコミュニケーションを密にして伝えることが大切で、その時に現地の人たちの意見や要望をよく聞いて、いいと思ったら取り入れていく経営判断能力が求められる。

中国でのモノづくり経験

モノづくり経験の最大の出来事は何といっても「新工場の建設」である。私が総経理として仕事をしたのは2000年から2005年で、「皆で貧乏」だった中国が豊かになりだしたころである。パナソニックエコシステムズ広東が設立されたのは1993年であったが、2002年地元政府から「ここは住宅地に指定されたので20年後までに移転してほしい」と言われた。工場は自前で建設したものではなく、手狭なうえ使い勝手が悪く、一方でビジネスは順調に伸びていたので、私は「それならすぐに工場を移転させよう」と決断した。丁度地元政府が作った国家級工業園が完成し、まだ一等地が空いていた。政府は私の決断を大歓迎し、金銭的なことも含めて手厚いサポートをしてくれた。2003年から検討を始めて200410月に新工場が完成した。その頃は次々と外資系企業が進出してきて、瞬く間に工業園は埋まった。現在では他でも土地はなくなり、この時に決断していなかったら大変なことになっていたと思う。

新工場を作るということは、現在考えられる最高効率の工場が実現するということである。工場設立から約10年たっているので、中国人の課長たちでその絵を描くことができる。私は基本方針のみを指示して中身は彼らに任せた。細かい検討に私が入れば通訳をつけねばならず時間がかかるのである。彼らは見事に私の期待に応えてくれ、予定通りに工場移転は完了した。現在では事業規模も私の居た頃と比べて3倍以上になっている。

話は変わるが、中国は2001年末にWTO(世界貿易機関)に加盟した。WTOに加盟したということは、仕事をグローバルスタンダードの下で行うということである。だからそこから何年もかけて法律の修正や整備が行われた。

その頃は中国の経営環境の転換期にあたり、中国の社会も人治主義から法治主義に変わりつつあった。その時に1993年以降のビジネスの中で蓄積された矛盾が噴き出してきた。税関の指示通りに進めてきた物事が、ある時外貨管理局から罰金が下るというようなこともあった。私の5年間の中での大仕事は新工場建設とともに、そのような累積されてきた矛盾をどう解決するかということであった。結果は両方とも地元政府の手厚いサポートが得られ、全て解決することができた。現地に居る時にはそれが普通かと思っていたが、広東省佛山市は全国でも有数の親切な政府であると理解できたのは、私の帰国後である。