日本に長寿企業が多いのはなぜか

世界で最も長寿企業が多い国は日本である。少し古いが2008年の韓国中央銀行の報告書によると、日本には200年以上の歴史を持つ企業が3,146社あり(世界の56%)、2位のドイツ(837社)を大きく引き離している。また2018年の帝国データバンクの報告では、日本で100年以上の歴史を持つ企業は、そこに登録されている企業147万社のうち3万3千社もある。世界で最も古い企業は日本にあり、それは西暦578年創業の「金剛組」という建設会社である。

それでは、なぜ日本に長寿企業が多いのか考えてみよう。一つは戦乱期が少なく、平和な安定した社会が長く続いたということ。それは島国で外国から侵略を受けなかったということが大きな要因であると思われる。二つ目は日本独特の経営(ビジネス)哲学の存在である。これに関して少し詳しく述べてみたい。

私は2000年頃仕事で中国に赴任して7年間香港と広東省で過ごしたことがある。それまではずっと日本で仕事をしていてグローバルな感覚はなかったが、海外に行ってみて初めて日本を客観的に見ることができた。ひとことで言うと「日本は特殊だが、素晴らしい点がたくさんある」ということである。これを説明しようと思えば多岐にわたるので難しいが、長寿企業につながる代表的なポイントを以下に述べてみたい。

(1)根気よく「こだわりの技術」を追求する国民性

日本にはトヨタ、ホンダ、パナソニック、ソニー、日立、コマツ、キャノン、ニコン、ファナック等多くの著名ブランドがある。他にも堀場製作所、YKK,オムロン、村田製作所等規模は小さくなるがそれぞれの分野で世界No.1のシェアを誇る商品を持つブランドがいくつもある。私は先進国(先進7か国をイメージ)になれるかなれないかは、製造業で多くの世界に通用するブランドを作れるか作れないかが分岐点だと思っている。「世界に通用するブランド」とは、顧客が価格が高くても欲しいと思うような商品をつくっているということであり、製造業が重要なのはその裾野産業が広く、多くの人を雇用できるからである。また高い価格で売るということは従業員に高い給料を払えるということである。中国はITの分野ではファーウェイ、アリババ、テンセントのように世界に冠たるブランドを構築しているが、IT分野だけで多くの雇用を生み出すことは難しい。

製造業のブランド構築で大切なことは、どんな苦労をしてでも自らのこだわりの技術を追求し、これを確立して商品化に結び付けるということである。日本の企業は大企業でも中小企業でも、そのこだわり技術がモノになるかならないか見通せなくてもコツコツと研究開発を進めるところが多い。私は中国に長く居たので中国と比較するが、肌で感じる中国人の価値観はそのようなところにはない。自らの商品を磨き上げて優位な商品群を創出しようという努力はほとんどしない。より大量により安く売るということに徹しているように見える。その上で、より楽にそして容易に金儲けできる分野に走るのである。例えばメーカーであっても、マンションを建設して販売すれば儲かるとなれば躊躇なくそちらに走る。これでは価値の高いブランドを構築することは難しい。

一度自らの分野を決めたら、その技術を極めるために何年間も惜しみない努力を重ねている日本企業の姿をよく見るが、このようにこだわりの技術をコツコツと磨いていくことが商品の差別化につながり、その結果高い価格で売れるようになり、価値の高いブランドをつくることにつながるのである。それが結果として長寿企業へとつながっていく。価値の高いブランドをつくれず価格競争のみに走っていては経営が疲弊していくだけである。

(2)現代の企業文化につながる古くからの価値観

日本の江戸時代(17世紀~19世紀前半)は平和な安定した時代であった。その時代には「士農工商」という身分制度があり、一番身分が高いのが武士、次が農民、その次が職人で最下位に商人となっていた。しかし、江戸時代後期になると武士は貧乏で商人が金持ちになり、武士のトップである大名が商人から金を借りるという状態であった。「武士は食わねど高楊枝」という言葉が残っているが、これはろくに食事はしていないが楊枝をくわえて食べたふりをしているということを言っていて、貧しいがプライドの高い武士の姿を表している。社会を支配する武士に施された教育は「質実剛健」という無駄をせず質素な生活を「美」とするものであった。

日本には「もったいない」という言葉がある。2004年にノーベル平和賞を受賞したケニヤのマータイさんが日本に来たときにその言葉を知り、世界に広めた。自然や物に対する敬意、愛などの意思が込められていて、世界の環境保護を進める合言葉になった。「もったいない」は、消費削減(リデュース)、再使用(リユース)、再生利用(リサイクル)、尊敬(リスペクト)の概念をこの一語で表せる言葉である。日本文化が凝縮されたような言葉で、他の言語でこれに相当する単語はない。

歴史的に見ても日本の支配階級は必ずしも豊かではなかった。そこには自分の金儲けだけを考えるのは卑しいことだという文化があった。一方で、世界の歴史では支配階級に富を集中させるのは当然であった。歴史を紐解けばヨーロッパのハプスブルグ家やロシアのロマノフ王朝等極端な金持ちがいくらでもある。しかし日本ではそうならず、今でも日本文化の伝統が色濃く反映していて、経営者は極端に高額な報酬を得ようとはしないのである。その結果所得の格差が少ないのが日本の特徴である。フォーブス誌(2018年)によると、10億ドル以上の資産を所有する人は世界で2208人いるそうだが、日本は35人で先進7ヵ国の中で最も少なく、アメリカ(585人)、中国(373人)、香港(67人)と比べるとその落差がよく分かる。日本の経営者には「ワーカーも含めて全員でこの商品を作っている」という精神が基にあるからだと思う。

加えて日本には独特の経営スタイルがある。それは「家業」としての経営ポリシーで、会社の存続を第一に考え、家の安定を大切にする文化である。跡継ぎの男子がいなかったら娘に養子を取って「家」を継続させることを重視する。「継続していることが信用を形成する」と考えていることが分かる。番頭を始めとする従業員を大切にするのも「家業」の安定と継続を願ってのことである。従業員に対する「礼節」や「質素倹約」などの厳しい教育はそのために必要なのである。

中国やアジアをはじめ世界では「血のつながり」が重視される。ビジネスでも信用できるのは身内であって、起業したら身内中心に組織を作るというのがよく見られる姿である。そこには「他人は信用できない」という人間性悪説からくる文化があった。ところが日本では赤の他人である「番頭」を信用して大切にする文化があった。これは人間性善説からくる文化が背景にあると考えられる。「番頭」は主人の片腕となってビジネスをサポートするのだが、時に主人に変わって汚れ役を買って出たり、あるいは主人にとって耳の痛い苦言を呈したり、更には跡取りがまだ幼い時にはその教育やしつけを施したりと活躍するのである。

これまで述べてきたように、経営者が自分や身内の利益だけを考えるということをせず、従業員を大切にするという精神が、長寿企業の基礎になっているのではないかと思われる。

(3)「三方よし」の精神

江戸時代の商人の経営理念として「三方よし」の精神がある。これは「売り手よし、買い手よし、世間よし」ということで、商人が自分の利益のみを考えることを戒め、相手の利益や立場を考え、更には社会に対しても納得してもらえる努力をすることを説いている。1700年頃に「富山の薬売り」がいて、作った薬を日本全国に売り歩いていた。その販売理念は必ず決められた適正価格で売ることで、相手が困っていてどんなに高くても買うという条件下でも、決して価格を上げないという理念である。これが長期間の商売の信用につながる。つまり私利私欲に走らずに「正直」に商いを行うことが企業を継続させるために最も大切なことであると考えているのである。

同時期に石田梅岩(1685~1744年)という商家出身の思想家が居た。「石門心学」という哲学を拓き、後世の経営者に大きな影響を与えた。その主要な教えは「正直」「倹約」「勤勉」といった商人の道徳、倫理を説いたものであり多くの商人の信者を得た。近江商人の「三方よし」と共通する教えである。

日本では大災害が発生して飲み水がない状況のとき、コンビニなどが自分の運送ルートで水を供給できた場合でも決して価格を吊り上げない。いつもの価格で売るか、場合によっては無償で供給するのである。これもコンビニが社会に貢献することを自分の存在価値としているからである。

古くからある企業にはそのような経営の考え方を書いた「家訓」というものがある。現在の経営理念に相当するものである。内容で共通するのは「目前の利益ばかりを追ってはならない」「名誉や信用をおとしめる行為は行ってはいけない」「投機的な事業はしてはならない」などで、堅実な企業経営の遂行を説き、自分の利益だけを考えることを戒め、質素倹約を旨とするよう説いている。伝統ある長寿企業はこの「家訓」を今でも大切にし、現在の経営理念や経営基本方針に反映させているのである。

(4)謝ることをよしとする文化

日本は「謝る文化」を持った国である。テレビカメラの前で「申し訳ありませんでした」と言って社長たちが頭を下げる姿をよく見かけるが、こんな国は他にはない。彼らは自社の不始末を「社会に迷惑をかけた」といって詫びているのである。謝ってすべて許されるわけではないが、「謝れば許す」という気持ちがあるのが日本の文化である。一方で他の国では謝っても許してもらえない。謝ったら最後「誤りを認めたのだから責任を取れ」と罰金や制裁の追求が始まるのである。だから中国でも東南アジアでもそうだったが、明らかに自分の失敗で問題を起こしたとしても、決して「自分が悪かった」とは言わない。実はこれが企業の改善や改革にとって癌になるのである。

私自身は日本で仕事をしている時から「自分が悪いと思う心」を大切にしてきた。社内で何か問題が起こった時に、「自分が悪い」「自分も悪い」と思うからこそ、その問題が二度と起こらないように自分が主体的に対策に取り組むことになるのである。「自分が悪い」と思わなかったら、反省する心が芽生えず、自分は何も悪くないのだから、そこからは新たな行動が起きることはない。

中国に赴任した時の話になるが、赴任して1ヶ月も立たない頃から、課長たちの言動や感覚が気になりだした。会社内で何か問題が発生した時に、ほとんどの課長が「自分には関係ない」という態度を取るのである。そのような姿勢からは「皆で力を合わせて取り組んで会社をよくしよう」という雰囲気が生まれない。係長以下のクラスの人たちなら致し方ない面があるが、課長がそのような態度では、会社全体の総合的な力が生まれてこない。マネージャーとしてのレベルに低さを痛感したのである。

そこで「自分が悪いと思う心」を理解させるため責任者会議のたびにその話をした。その心が企業の発展につながるのだと何度も説明し、その「心」が分かってくれた結果、「自分は関係ない」という態度はなくなり、一段と強い会社になったような気がする。

日系製造企業のよいところは、社長もワーカーも一体となって、品質の良いモノづくりにまい進しているところである。社長も通常は作業服を着ていて、工場に入るとワーカーと区別がつかない。また昼食もワーカーと同じところで同じものを食べていることが多い。この日本の経営者や管理者の姿勢は日本の文化が色濃く影響した結果だと考えられる。このように従業員が進んで改善改革に取り組むようになれば、より強い会社になり、しいては長寿企業につながるのではないか。

4つの視点から述べたことが長寿企業が生まれる要因になっているのではないかと思う。他にも色々な視点があると思うが、最後に松下幸之助が語った言葉を記したい。幸之助は「松下電器は何をつくるところか」と尋ねられて「人をつくるところです。併せて電気器具もつくっています」と答えたということである。ここで松下幸之助のいう人材の育成とは、単に技術力のある社員、営業力のある社員を育成すればよいということではない。自分が携わっている仕事の意義、社会に貢献するという会社の使命をよく自覚し、自主性と責任感旺盛な人材を育成すること、いわば産業人、社会人としての自覚をもち、経営の分かった人間を育てるということで、それが松下幸之助がめざした真の意味での人材育成であった。幸之助の作った松下電器(現パナソニック)が2018年に100年企業になったことを申し添えておく。

日本企業と中国市場

日本の製造業の海外進出は1960年代から主に東南アジアで始まった。その頃の東南アジア諸国は関税障壁が高く(100%というところもあった)売りたい国で作る必要があったのである。日本への持ち帰りを目的に進出しだしたのは、1985年のプラザ合意以降の円高局面からである。この時はまだ東南アジアが中心であった。中国は1980年頃から改革開放政策が実施されたが、最初はアパレルや靴等の労働集約産業の進出だけであった。付加価値の高い企業が進出する条件が整いだしたのは1995年前後からである。2000年前後からは怒涛の如く日本企業の中国進出が続いた。その頃の中国は社会インフラが急速に整備され、モノづくりインフラも整い、加えて無尽蔵にいる低賃金のワーカーの存在と、中国政府の手厚い外資優遇政策に支えられ、東南アジアに比べて圧倒的に優位なモノづくり環境が確立された。

現在では賃金の大幅な上昇(2000年に比べて2016年の最低賃金は4~5倍に)で人件費の優位性はなくなったが、中国人は男女ともに優秀でよく働くのと、部品産業が充実しサプライチェーンが組めるのが東南アジアと比べて優位な点である。だから付加価値の高い輸出産業はまだ中国が捨て難いのである。

一方で賃金が上がった分国民は豊かになった。私が中国で仕事をしていた2005年頃は中国で空気清浄機を売ろうと頑張ってみたが、全く売れなかった。しかし、現在ではPM2.5の影響もあって飛ぶように売れるようになった。また中国は全国的に黄砂があり、洗濯物を外に干すと衣類が黒ずんでくるが、シャワールームで乾燥させる「バス乾燥ユニット」を発売したら、これも儲け頭になった。このように輸出や日本持ち帰りをしていた商品が中国市場でよく売れるようになった。もともと「世界の工場」という位置づけであったが、今や「世界の市場」である。自動車が年間2800万台も売れているのである。

一時中国リスクを考えて「チャイナ・プラス・ワン」が叫ばれたが、その時でも中国市場から離れようと考えた企業はほとんどない。世界で並外れた成長力を保持し、毎年台湾1国よりも大きなGDPが生まれているのである。日本のマスコミは中国のバブルがはじけるとか経済が行き詰まるという記事をこの10年来書き続けているが、日本の企業はリスクを考えながらも冷静に市場を見ているのである。

日本企業の中国駐在

製造業の話であるが、日本の企業は欧米系に比べて駐在員が多い。アメリカ人と話したことがあるが、彼らの発想は優秀な社長や管理職を現地で捜して雇い、彼らにビジネスをやらせるということをまず考えるそうである。だから最初は駐在員が居るが、ビジネスが回転しだすとさっさと自国に引き上げることが多い。

一方で日系企業はいつまでも日本人駐在員が居る。これは世界に冠たる「モノづくり大国」日本なので、自国で培ってきたモノづくりのノウハウをそのまま現地に移植したいと考えているからである。駐在員が現地にいる限りはポストが必要になる。だから部長クラスはほとんど日本人ということが珍しくない。これを見ている中国人は自分たちの将来を悲観し、チャンスがあればより可能性の大きい欧米系企業や中国地場企業に転出するのである。加えて欧米系や中国地場企業は優秀な人に高い給料を払うが、日系は平等主義がいきわたっていて給料の格差は小さいのである。

現地で仕事をしているとこのようなことが分かってくる。そこで大切なことは優秀な現地人材からいかにしてやる気を引き出し、辞めささないようにするかということである。中国人は将来の自分の利益を最大化することを真剣に考えている。だから「この会社に居たら自分にとってプラスである」と思ったら会社を辞めない。そのためには「ヤル気の出るしくみ」を構築し、権限移譲も含めて将来は人材の現地化を進めることを明確にし、そのためのコミュニケーションが大切だということになる。その時には日本で築き上げてきたモノづくりの思想を「日本ではこうしていた」ではなく、「なぜ日本のやり方が大切なのか」を論理的に説明できる知識とコミュニケーション力が必要となる。納得すると彼らは放っておいても自ら動いてくれるようになる。

さて、現地駐在の日本人経営者で日本本社の方を向いて仕事をしている人が時々いるが、中国人の部下はよく見ていて、そのような経営者は信頼されない。日本人経営者は中国人の部下と中国市場の方を向いて仕事をすべきである。そのためには自分自身にしっかりとした「思い」「ポリシー」を持ち、現地会社として何がしたいのかを明確にしなければならない。それをコミュニケーションを密にして伝えることが大切で、その時に現地の人たちの意見や要望をよく聞いて、いいと思ったら取り入れていく経営判断能力が求められる。

中国でのモノづくり経験

モノづくり経験の最大の出来事は何といっても「新工場の建設」である。私が総経理として仕事をしたのは2000年から2005年で、「皆で貧乏」だった中国が豊かになりだしたころである。パナソニックエコシステムズ広東が設立されたのは1993年であったが、2002年地元政府から「ここは住宅地に指定されたので20年後までに移転してほしい」と言われた。工場は自前で建設したものではなく、手狭なうえ使い勝手が悪く、一方でビジネスは順調に伸びていたので、私は「それならすぐに工場を移転させよう」と決断した。丁度地元政府が作った国家級工業園が完成し、まだ一等地が空いていた。政府は私の決断を大歓迎し、金銭的なことも含めて手厚いサポートをしてくれた。2003年から検討を始めて2004年10月に新工場が完成した。その頃は次々と外資系企業が進出してきて、瞬く間に工業園は埋まった。現在では他でも土地はなくなり、この時に決断していなかったら大変なことになっていたと思う。

新工場を作るということは、現在考えられる最高効率の工場が実現するということである。工場設立から約10年たっているので、中国人の課長たちでその絵を描くことができる。私は基本方針のみを指示して中身は彼らに任せた。細かい検討に私が入れば通訳をつけねばならず時間がかかるのである。彼らは見事に私の期待に応えてくれ、予定通りに工場移転は完了した。現在では事業規模も私の居た頃と比べて3倍以上になっている。

話は変わるが、中国は2001年末にWTO(世界貿易機関)に加盟した。WTOに加盟したということは、仕事をグローバルスタンダードの下で行うということである。だからそこから何年もかけて法律の修正や整備が行われた。

その頃は中国の経営環境の転換期にあたり、中国の社会も人治主義から法治主義に変わりつつあった。その時に1993年以降のビジネスの中で蓄積された矛盾が噴き出してきた。税関の指示通りに進めてきた物事が、ある時外貨管理局から罰金が下るというようなこともあった。私の5年間の中での大仕事は新工場建設とともに、そのような累積されてきた矛盾をどう解決するかということであった。結果は両方とも地元政府の手厚いサポートが得られ、全て解決することができた。現地に居る時にはそれが普通かと思っていたが、広東省佛山市は全国でも有数の親切な政府であると理解できたのは、私の帰国後である。